秩父神社(秩父市番場町)の例大祭「秩父夜祭」が12月1日~6日に開催され、2日の宵宮、3日の大祭、6日に神楽殿で秩父神社神楽保存会による神楽の奉納が行われた。6日は「六日町」と呼ばれ、秩父夜祭最終日の神楽奉納が行われた。
秩父神社に伝わる神楽は「神代神楽」と呼ばれ、1878(明治11)年の秩父大火で多くの記録が焼失したため詳細は不明だが、伝承によると神代の時代から続くものだという。
35座の演目は大太鼓、小太鼓、靭鼓、笛の音に合わせて舞う無言劇(黙劇)で、秩父神社の神楽舞は、天岩戸神話(天照大神が天岩戸に隠れた神話)に由来したものが多い。代表的な演目の第七座「天岩戸開き」は、秩父神社の祭神でもある八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)が中心となり、天照大神(あまてらすおおみかみ)を慰めたとされている。
秩父神社の神楽は1979(昭和54)年に「秩父祭の屋台行事と神楽」として国指定重要無形民俗文化財に選ばれ、2016(平成28)年には「秩父祭の屋台行事と神楽」を含む「山・鉾(ほこ)・屋台行事」がユネスコの無形文化遺産に登録された。
同会・秩父神社神楽師主任の新井力也さんは、高校を卒業してすぐに神楽師に所属した。都内で働いていたことで途中に17年ほどのブランクがあったが、秩父に戻ってきて35年神楽師を務めている。新井さんは「神楽のメンバーは、今では秩父地域外から通う神楽師も所属しているが、昔は別所地域に住む人たちが中心になり神楽師を務めていた」と振り返る。
3日は15時ごろまで神楽殿で奉納を行った後、17時30分ごろに秩父神社から御神幸行列が御旅所に向けて出発した。屋台と笠鉾(かさほこ)を、一本げたを履いた猿田彦命(さるたひこのみこと)が先導。猿田彦命の後ろで神楽師が道中楽を演奏し、大幣(おおぬさ)の守り役として2人の神楽師が付いた。「昔は御神幸行列は屋台と笠鉾の後ろに付いていたが、今は先導する形に変わっている」と新井さんは話す。
御旅所に19時30分ごろに到着した後、供物の献饌(けんせん)が行われ、流れる雅楽も神楽師が演奏する。22時30分ごろ、全ての屋台と笠鉾が集まり、屋台責任者が席に着くと「御旅所斎場祭」が始まった。祭典で奉納される神楽演目の第18座「代参宮」は素面で舞う神楽で、秩父神社神楽では珍しい。
その後、全ての屋台と笠鉾が御旅所から各町会に向けて出発した深夜2時ごろに再び御神幸行列を組む。帰りは御神幸行列のみ番場通りを通って秩父神社に戻っていく。3時ごろ、秩父神社に戻った。
新井さんは「1975(昭和50)年までは屋台も番場通りを通っていた。30年くらい前の秩父はもっと寒く、道中楽を吹いていて笛が凍ることも多かった。最近の夜祭は随分、暖かくなった」と振り返る。「昔は御旅所前の公園周辺にスマートボールなどの遊戯施設や見せ物小屋などもあったが、今はすっかり形を変えてしまった」とも。
同会による神楽の奉納は、毎年1月2日の初神楽をはじめ、2月3日(節分追儺祭)、4月4日(御田植祭)、5月3日(秩父宮祭)、7月19日~20日(川瀬祭)、12月2日~3日(例祭)、12月6日(六日町)に神楽殿で奉納される。
新井さんは「現在は所属人数が少ないことが課題の一つ。毎回奉納している『天岩戸開き』は奉納するために最低11人は必要だが、現在所属する神楽師が12人なので、体調不良などで欠席者が多いと奉納できない日もある」と話す。
「音に合わせて、一挙手一動作で表現するのが神楽の面白いところ。上達のために他者の舞を参考にし、自分の長所・短所を理解して練習を続けることが大切。文化遺産にも選ばれている神楽が続いていけるよう、これからも多くの人に関心を持ってもらい、後継者を増やせるように頑張りたい」と新井さんは力を込める。