皆野町の俳句の歴史をたどるミニ企画展が現在、壺春堂(皆野町皆野)で行われている。主催は皆野町教育委員会。
今回が3回目になるミニ企画展は、「皆野の俳句~戦後編~ 俳誌『雁坂』と俳人たち』について」と題して開く。1945(昭和20)年~1956(昭和31)年にかけて刊行された俳誌「雁坂」の歩みを3期に分け、金子伊昔紅をはじめとする俳人が、その時々に目指した俳句雑誌の姿や俳句の在り方をストーリーとして紹介する。
同会学芸員の望月暁さんは「『雁坂』は皆野で創刊され、秩父郡内と周辺で読まれたマイナーな地方俳誌。ほぼ全てのバックナンバーが壺春堂に残されていたことで、俳句という文学作品から、戦後の世相や人々の考え、価値観の移り変わりを読み解くことができる貴重な資料となった」と話す。
同展では同誌上に掲載された作品も紹介。望月さんは、各期からそれぞれ印象的な一句を挙げる。
第1期から挙げた「還り来てわが焚く門火魂迎(かえりきて、わがたくかどび、たまむかえ)」については、「戦争の傷跡が残る1946(昭和21)年に孝が詠んだ句。戦地から故郷へ帰ることを復員というが、これは異色の句。孝自身は中国から復員したが、敗戦直前に我が子を亡くしている。亡くなった多くの戦友と我が子に比べ、自分は運良くも内地に戻り、魂を迎えている。この悲しみは、どれほどだったか」と話す。
第2期から挙げた「蚕糞落つ医師に汲み置く手水にも(こくそおつ、いしにくみおく、ちょうずにも)」については、「1951(昭和26)年に伊昔紅が詠んだ句。敗戦直後の混乱を経て、ようやく生活も安定を見せ始めた頃。往診を生業とした詠み手には、秩父の主要産業であったお蚕を題材にした句も多い。診察で用いる手水にさえ蚕の糞が入ってしまうほどに、除沙(じょさ)の作業が追い付かない養蚕の忙しさを詠んでいる。秩父の生業を詠んださまざまな作品は、まさにローカルな雑誌の面目躍如」と話す。
第3期から挙げた「やがて湖底春蚕秋蚕と飼ひつげど(やがてこてい、はるごあきごと、かいつげど)」については、「1956(昭和31)年に伊昔紅が詠んだ句。安定期を経て、高度成長期へ向かっていく日本では秩父でも、句の題材となった二瀬ダムをはじめ、大規模なインフラ整備が進められていた。同ダムの工事では、2つの耕地が湖底に没している」と話す。
望月さんは「戦後10年という期間は、人々の感性や価値観が大きく揺れ動いた時期。当時の俳人にとって、俳句は趣味ではなく、自身の生き方そのものを表現する舞台だった。作品を通じて、俳人の熱い思いをくみ取ってもらえれば」と話す。
開催時間は10時~16時。入場無料。11月24日まで(17日は一般公開なし)。